3年目にしてもはや毎年の恒例行事、今年はAbbey Roadの50周年記念版です。
このビートルズの恒例行事、ナゼか私はモヤモヤしてしまいます。
いえ、恒例行事だけではありません。その前の「+1」「ハリウッドボウル」も同じで、実は今もモヤモヤしています。
一体このモヤモヤはなんだろう?と、それを見極めたいがために、ぶつぶつ言いながらこの一連のリイシューを聴き続けているといった具合。
屈折しすぎでしょうか。
ま、それはいいとして、今回のアビーロードにも触れておきたいと思います。
(結局、これが一番素晴らしい)
テクニックも表現も進化したAbbey Road
本編のリミックス版については、放っておくとして、2枚目、3枚目のアウトテイク集についてぶつぶつ呟いてみることにしましょう。
私はこの2枚を非常に興味深く聴きました。
まず、ビートルズの演奏力の高さを再確認できたのが非常に嬉しい。
広く知られているところではありますが、ビートルズのレコーディングでは、ベーシックトラックはバンドによるライブレコーディングが基本的に行われています。
ライブレコーディング、つまりみんなで「せーの」で演奏する。
実際、50周年版の過去2作品「Sgt. Pepper’s」や「ホワイトアルバム」のアウトテイク集でもその様子が明らかにされている通り、スタジオ技術を惜しみなく投入して制作されたというアルバムさえ基本はライブレコーディングです。
今回のアビーロードでも、デモテイクや「ジョンとヨーコのバラード」のようなイレギュラーなレコーディングは別として、ビートルズがほぼすべてをメンバー4人、ないしは3人、またはビリー・プレストンを交えた編成でライブレコーディングする様子が聴けます。
しかも、前2作よりテクニック的にも表現の領域でも進化した印象の瞬間が多く、グイグイっと引き込まれてしまいます。
やっぱりビートルズは上手かった。
私が特に感心したのが、ジョン・レノンとジョージ・ハリスンのギターアンサンブル。
リズムとリードが交差し、時にはすれ違い時には絡み合う。これにはついうっとりさせられます。
フレーズもアンサンブルも練られているように聴こえますが、プリプロでもしたのでしょうか?(特にYou Never Give Me Your Money)
ジョン・レノン、不在
さてもうひとつが、興味深いのがジョンのレコーディング不在です。
ところでこのジョンの不在の原因、通説というか、一つの事実として彼が交通事故に遭ったということがあります。
しかしそれとは別に、当時彼がヘロイン中毒だったことも大きく影響しているのではないかと思うのです。
ポールが当時を振り返ってこんな内容のことを発言していました。
曰く、当時ジョンがドラッグにハマっていてほとんどコミュニケーションがとれなかった、と。
閑話休題。
さてこのジョンの不在、彼がいないという事実より、彼がいなくてもビートルズがビートルズとしてサウンド的に成り立っているということが非常に興味深いのです。
Maxwell’s Silver Hammer、不在。
Here Comes The Sun、不在。
Golden Slumbers〜Carry That Weight、不在。
ところがこの3曲、すっかりビートルズです。
それまでの楽曲でも4人が揃っていないレコーディングは結構あるので今さらメンバーの不在は言及することでもないのですが、Abbey Roadというビートルズの最後のアルバムでも例えメンバーが欠けていたとしてもビートルズしているところが非常に愛おしく感じるのです。
さらには、ビートルズというグループって一体どんな集合体だったかということを想像(妄想)してみたくなります。
私的にはこういうことになります。
- ビートルズというグループはその関係性において「ジョン・レノンとその仲間」というユニットである。
- 言い方を変えれば、ジョンが親分、他の3人は子分という間柄である。
- つまり実際にジョンが不在であっても、そこにシンパシーがある限り、ビートルズの音になる。
- この関係性はマイルス・デイビスの音楽にも言える(つまり、誰と何をやってもマイルスの音になる)。
- 以上のような理由で、「Free As A Bird」もビートルズとして成り立っている。
それでも相変わらず中途半端感満載のビートルズのリイシュー
ここまで書いてきて、やはり拭えないのが、2000年代に入ってのビートルズのリイシューものに感じるモヤモヤです。
確かに今回のアウトテイク集、それなりに面白いです。
しかし、今回はバッサリと1曲につき1テイクずつというあまりの物足りなさ。
ライブ活動を止めて以来、ビートルズはスタジオでレコーディングしながら作品を作り上げていったというのは、この50周年版の購買層なら言わずもながの釈迦に説法。
そんな猛者たちが知りたいのは、その作品を作り上げていった過程のはず。
それなのに、あぁそれなのに。
一体こんな中途半端な出し方をして、これで私たちに何を知れというのでしょうか?
そうです。私のモヤモヤの原因(のひとつ)はこの途方にくれそうなまでの「中途半端感」なのです。